他人と自分を比較して落ち込まない方法

他人と比較して落ち込んだり、嫉妬したり、煽られたりの頻度が高い人は、

1)相対の世界を見すぎている

2)自己肯定が弱い

3)自己の確立ができてない

4)ビタミン不足である

友人が死にたい(比喩ではない)とのことで、少し考えてみました。彼は、自分より優秀な方とお話した後に、そういう気分になったとか。誰でもあるよね、そういうこと。もっと言えば、死にたいと思ったことの一回や二回、誰でもあると思ってる。上記四点の具体的解決を書いてみたい。

 

1)相対の世界を見過ぎている

映画やドラマは虚構だと割り切れるけど、SNSでちょっとしたものを見たときに落ち込むとかね。大体、人は、自分よりちょっと何かができるとか、自分と近い人に嫉妬心を抱きやすいんだって。そういうことを自覚しておけば、少しは楽かもです。ネットを遮断するというのも一つの方法です。デジタルデトックスを設けて、ちょっと自由になろう。

人に会って落ち込まない方法は、同業者と会わないこと。違う技能、違う職種の人に会えば、比べようがない。あと、すご過ぎる人に会おう。比較しようがないくらいの。会ってもらえるなら、そのほうが断然いいっしょ。

だけど、全然これがないと、ダメ人間になっちゃうよね。適度に負荷をかけてもいいと思う。自分でコントロールできるんだから、コントロールしよう。あんな、自分の見るもの、会う人は自分で選べるんやで。

2)自己肯定が弱い

育った環境で養われなかったなら文句言ってる場合じゃなくて自分で養わないといけない。自己肯定感を持つって難しいよね。今日知人におすすめしたのはクリエイティブです。大層なもんじゃなく、自分の満足がどこにあるのかを知ってそれを自分で作り出してやる。例えば、私は半熟の味玉をこよなく愛しているのですが、ちょっとしたときに半熟の味玉を作って冷蔵庫に仕込んでおくとか、そういう暮らしの小さなことです。それをコツコツ積み重ねていく。これは、すごく精神が安定する。自分の満足がどこにあるのか、丁寧に見つけてあげてください。

もう一つは、例えば絵を毎日描くこと。上手い下手は関係なく、確実に今の自分にしか描けないものを描くってことに意味があります。写経なんかもいいかもしれない。車の中で毎日同じ歌を歌うと日によってコンディションが違うのがよくわかる。比較しているのは、昨日の自分と今日の自分です。ネットにアップしたら、また相対の世界に迷い込んでしまうので、一人でひっそりと出来ることがあるといいと思うし、できるかできないかってことに挑戦するよりも、簡単にできることを続けてみるといいと思う。

参考:鳩サブレを八年間黙々と作った人(鳩サブレはかなりハードル高いと思うけどエッセンスだけ。笑)

http://blogs.yahoo.co.jp/wakuwakuicf

3)自己の確立ができてない

2の自己の肯定の次に3の自己の確立があるイメージで書きましたが、肯定感があっても大きな相対に触れるとぶれるときゃぶれるんだよね。私の極個人的な感覚だと、自己肯定を大切に、適度に負荷をかけていけば50才くらいには身に付くんじゃないかと。わはは。何が言いたいのかと言うと、長丁場なので、一喜一憂しないで、どっしりと先を見据えて行く事も時には大切、というお話です。精進しようぞ。

 

4)ビタミン不足である

死にたいという気持ちになるのは、脳の損傷という説もあったり、栄養の不足であるという説もあります。そうなると、具体的対処が必要だったり、治癒までに時間が必要だったりする。

試してみてもいいんじゃない?と思うのは、ビタミンCのメガドーズですかね。ストレスに対処する際、人はたくさんビタミンCを消費します。副腎という抗ストレス器官があり、これを機能させるにはビタミンCが必要なのです。これ読んでみてちょ。

ビタミンC4g摂取でスター獲ったマリオになったお話 ~疲れてる人へ~

あと、単純に考えて、脳の損傷があるなら、治癒のためには良質のたんぱく質が必要だったりするよね。

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友人は遠方に住んでいるので、ちょっと物事を整理して、こんな風に書くくらいが私の出来る限りですが、これで彼が一日でも乗り切れればいいなと思って書きました。同じように、周囲に落ち込んでいる人がいる方には、これ、オススメです。

 

プロカウンセラーの聞く技術

カウンセリングの本の中では最高峰ではないでしょうか。

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ハードワークでめんどくさがりだけど、美しく健康に生きるためのたった一つの方法。

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「女」は無理ゲーなのか

とかく女は忙しい。なんでかって、きれいとお仕事を両立させないといけないからです。きれいとは即ち健康であることも含みます。しかし実際は、寝る間際までPCでお仕事をしなければいけないもんだから、疲れ目、肩こりで冷えやすく、だからお風呂に時間がかかったり、整体に行かなきゃいけなかったり。お風呂から上がったら長い髪を丹念に乾かさないといけないし、出勤前にはブローしたり、巻き髪にしたり、メイクしたり。お洋服やコスメを選ぶのだって時間もお金もかかっちゃうし、美容院なんか、一回入ったら3時間は覚悟しないといけない。きーっ。

とかく女は忙しい。それなのに!それなのに!美しく健康でいるためには、外食ばっかじゃダメと来たもんだ。コンビニ飯や外食ばかりだと、なんか調子悪くなってくる。自炊だよね。わかってる。でも、よく考えてみて?なんか詰んでない?完璧な自炊をして、その上、次のキャリアの為のお勉強とかしてると、睡眠時間3時間くらいになっちゃうんじゃん?え?なに?ここはハーバードなの?一生卒業することのないはあばあどだいがくなの?

まぁ、アレです。この時点で無理ゲーの匂いがプンプンする。しかーし、色々考えるのはもうやめにしちゃおう。だってめんどいもん。ハードワークでめんどくさがりだけど、美しく健康に生きるためのたった一つの方法を、私が(あの頃の私に)伝授します。こういうことをさ、なんで誰も教えてくれなかったんだろ。基本だし、たった一つだし、だけど、母も、先生も、先輩も、だーーーーれも教えてくれなかった。アンサーファーストで行くぞ。

「 腸を健康に保とう 」

はい。これだけ。ちょー簡単。なぜ腸なのか。腸は、人体の中で最大の免疫器官なのです。腸が健康だと、病気に対する抵抗力が付くよ。そして、腸が健康だと、心の健康や疲労回復に大切なビタミンB群を勝手に作ってくれる。腸内環境が悪いと、リーキーガット症候群を始めとして、不定愁訴が次々に出てくるよ。あなたが悩んでいる花粉症やアレルギー症状は腸が原因かもしれないことが、最近の研究で続々判明してきています。

さてさて、具体的にどうすればいいか、次によくある女のハードモードを2タイプの具体例と共に書いていきます。

PART2

ハードモードレベル 強

仕事や最低限の家事を終えたら、倒れこむように寝るだけ。朝はギリギリまで寝たいので食事を作る時間などない。休みにも何もできない、または休みがほとんどない。使ったら洗わなきゃいけないから包丁とまな板を出すのがつらいくらいには疲れている。またはめんどい。帰宅が遅い、また、仕事終わりが遅いため、就寝間際にやむを得ず食事をすることがある。

PART3

ハードモードレベル 中

忙しいけど、またはめんどくさいけど、朝、夕飯を作るために、10~20分の時間が取れる。週に一度、買出しが可能、1h~2hの仕込み時間が取れる。

 

 

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余談:

写真は、年末に仕込んでおいた洋梨のワインコンポートです。写真ではヨーグルトと合わせていますが、クリームチーズと合わせるとちょー美味い。レンチンで10分くらいで仕込めるので、興味のある方はググってちょ。スパイスは、ナツメグ、シナモン、カルダモンです。

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。水墨画始めました。

明けましておめでとうございます。

念願の水墨画をスタートさせました。数年前からずっと描きたいなぁと思っていたのですが、ようやっと筆を握っております。お正月なので干支のお猿のコスプレガールを描いたよ。

 

二作目なので、徐々にコツが掴めてきました。下書きの際、墨の濃淡や筆遣いをイメージしながら描いて行くとスムーズ。墨の薄い箇所や大きな面から塗り始め、濃くて細いところと文字入れは最後に。墨は、水でかなり薄めても、まだはっきりと色が出ます。薄く塗りたい部分は、これでもかというくらい薄める。前回も今回も色紙に描いているので、水墨画用の半紙だとどういう滲み方をするのかわかりませんが、色紙は滲みより、掠れが面白いなぁと思う。しかし私は滲みをもっと描きたいんだな。

下の絵は、スマホで加工してみたものをフォトショで調整したものです。まだまだ線が硬いのですが、とにかくたくさん描いて、思ったままの線が描けるよう慣れようと思います。三ヶ月~半年くらいしたら、自分の曲に挿絵を描いてアップしたい。今年の抱負の一つです。

 

ちなみに一作目は大好きな白木蓮を描いたのですが、これは構図以外は全部ダメだ。初めてで緊張して、線が硬くなっちゃった。ほんとはもっと柔らかく、大胆だけど、可憐になるはずだった。

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今見ても、悔しくて「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」ってなるのだけど、記念すべき一作目なので、アップしておくよ。

運命の人

運命の人っているのかな。

いるんだったら、運命の人に出会ったら、それがその人だとわかるものなのかな。

ぼんやりしている私は、もしかして、今までの人生で運命の人を見落としてきたのではないのかな。

もう五年だか、七年だか前にそんなことを考え、その疑問は、ずっと私の頭の片隅に居座っていました。時折……それは大体、人との関係が上手くいかないなぁとしょげている時でしたが……「運命の人」について、眠る前にググってみたりします。だけど、納得のいく記事はヒットせず、スマホの検索窓に入れるワードを思案しながら寝オチしてしまったり、哲学の「偶然」や「運命」の森に迷い込んで、出て来れなくなったりしていました。アホい。

やっぱり、もう一度結婚したいなぁ。理解しあえて、一緒に楽しく過ごす、生涯のパートナーが欲しいなぁと本気で思ったのは、二年くらい前のことだったでしょうか。それまでは、口では「パートナーがいるって豊かなこと。一人は楽しいけど、二人は豊か」とか言いながら、誰かとお付き合いすることをどこか諦めていた節がありました。というのも、私は兼業作家で、仕事から帰って、作詞、作曲の作業をし、倒れこむように眠るだけの生活に、もう二度と(私には離婚暦がある)パートナーが入り込む余地はないと思っていたからです。それが、二年前、男友達がある男性を紹介してくれて(そのご縁は成りませんでしたが)自分に少しその気が出てきたのです。

しばらくして、私は婚活サイトに登録しました。成り行きでしたが、今はそのサイトで知り合った、とても大切に想える彼がいます。そして、随分前に「運命の人」について考えていたことを先日ふと思い出しました。私は、婚活サイトでたくさんの、本当にたくさんの方のプロフィールを拝見する中で、今ではとても離れがたいと思えるまでの彼を発見した(正確には彼が私を発見してくれてメッセージを下さったのですが)。そうか!今なら「運命の人」というのがわかるんじゃないのかなぁ!!アプローチしてくださった方々と、彼とは、何が違ったのだろうか?なぜ、私には、彼だけが浮かび上がるように、光って見えたのだろうか?彼は、元々魅力的な人ではあるけど、長い時間を共有することになるであろう予感が既にあり、相性という意味でも、他の人とはなにかが決定的に違うと、あの時、私は確かに感じていたはず。それが「運命」ではないのか?その正体は一体なんであろうか???

さまざまにこねくり回していた思考だったからか、嘘みたいにすぐ回答にたどり着きました。ちょー呆気なかった。

私は、あの時、「運命の人」じゃない人に対しては(つまりほとんどの人に対しては)プロフィールなどを拝見した時点で、遅くとも、一、二通のメッセージをやり取りしている間に、無意識に「カテゴライズ」してしまっていたんじゃないのか?

(この人いい人枠)

(この人チャラい枠)

(うーん、文章のリズムが合わない枠)

(お仕事で知り合いたかった枠)

(保守で官僚的、私の仕事への理解が薄そう枠)

等々。

どうですか?みなさん、リアル社会でも、SNSでも、みなさんは、多くの人に触れ、多くの人から情報を受け取っているはずです。カテゴライズってね、その人との距離なんです。人と情報の洪水の中、なんらかの形でカテゴライズでもしなけりゃ、なかなか整理もできない。その善悪はともかくとしても、人は無意識にカテゴライズして「その対象と上手く距離をとる」。自分の脳みその中のどの辺に配置しておこうと、決める。自分の心の中のどれくらいを割こうかと考える。ワカモノが読んだら、大人の小賢しさを感じ取るかもしれないけど、人との距離が上手くはかれるってことは、生き易さでもあるのです。いろんなカテゴライズをして、タグをつけておけば、一定の距離をもって接することができて、何事もスムーズです。(この人は、こういう人だから、自分の中ではこれくらいの距離を取っておこう)(この人はこういう人だからこれくらい)それは、双方の幸せのためでもあります。

さて、ここで、彼を思い出してみます。ああ!やっぱりこの考えは大きく外していないぞ?私は彼からメッセージを頂き、彼のプロフィールを拝見したとき、彼をカテゴライズしなかったのです。彼は、カテゴリーごとのテンプレートで対応すべき対象ではない、と、私は即時に判断しました。彼との間に起こったことは、一つ一つ、その時に対応したい=コミュニケーションを取りたいと考えたのです。それはすぐ行動に現れました。私は、彼にメッセージを返信し、翌日だったかには、もう数通のラリーになりました。それまで、たくさんのメッセージを半ば事務的に処理して疲れきっていたのに、彼からのメッセージが待ち遠しくて仕方がなかった。その後はプライベートのアドレスでたくさんのメールを交わしました。カテゴライズしてないから、もっと知りたいんです。たくさん知っても、まだまだ知りたい。

さてさて、ここで、この仮説を検証するために、心的に近く感じている他の友人にも当てはめてみよう。例えば、常駐しているTwitter。やや!Twitterのお友達に関しての感覚も、これに似ています。自分の中で「○○クラスタ」とカテゴライズされていない人は大体友達。なーんだ。「運命の人」と言うのは「自分の中でカテゴライズできない、また、しない対象」なんですね。それは、どういうことだろう。「自分にとっての未知=知りたい人」と「自分と似通っているところ=安心する人」が、その人の中で、同じくらい存在しているってことなのかな?(また考える)

だから、あなたの中で、カテゴライズできない人が現れたら、タグ付けできない人が現れたなら、それはあなたにとっての「運命の人」かもしれません。まぁ、でも、こういうことは大体、後から気が付く。心配すんな。

そうそう。もう一つ、「運命」について思うことがあります。実は、彼からメッセージを貰う前日、きっと私が好きになる人はこういったサイトに登録したりしないのね、と諦めていました。沢山の方のプロフィールを拝見して、ありがたいことに沢山のメッセージも頂いたけど、もう、サイトを退会しましょう、と考えていたのです。パートナーが見つかるといいなとは思っていましたが、執着をしなくなったとき、彼が現れました。これは、映画や小説なんかでもよく使われるストーリーですが、自分の人生の中でもいくつか心当たりがあります。頑張って手放したとき、それが訪れる。これは、「運命」の特徴の一つではないでしょうか。

そして、この考察から一晩経って考えてみると、これって、情報社会での取捨選択をどう行っているかの延長にあるようで、現代的ですね。考え始めた当初、運命を考えることは偶然を考えることに似ているかもしれないと思っていたけど、哲学的考察からはちょっと離れてしまった感があります。しかし、いろんな「運命論」を読んで、だけどしっくり来なくて、今のところ、この考え方が一番しっくり来てますので、とりま、これ採用ってことで〆たい。

ちなみに、体系的に「偶然」や「運命」を考えてみたい人は、ここにヒントがあるよ。木田元氏の「偶然性と運命」を紹介した松岡正剛さんのブログです。ここでは、哲学の中で「偶然」や「運命」がどう扱われてきたのか、偉大な哲学者の思想を駆け足ですが、体系的に紐解いています。とっても面白い。

「松岡正剛 千夜千冊」

http://1000ya.isis.ne.jp/1335.html

”九鬼周造こそが偶然を思索した近代哲学最高の哲人”

とありますね。紹介の文中にもありますが、最後に私からも一冊ご紹介します。九鬼周造はこの本が面白い。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫) 

http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%84%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E4%BB%96%E4%BA%8C%E7%AF%87-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B9%9D%E9%AC%BC-%E5%91%A8%E9%80%A0-x/dp/4003314611

日本に生まれて、海外の思想や文化に触れ、また日本を考えた末にこれを書いた九鬼に、作曲家に通じる芸術性を感じたものです。

あー長かった。やれやれ。本日は、長い時間、惚気にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。またのお越しを心よりお待ちしております。あは。

東京デモクラシー 1

「えるしってるか。私は特殊メイクをしていない」

甘いお菓子の空き袋が散乱したデスク。ひっきりなしに流し込むカフェイン。疲労しないようにバロンチェアを買って、だけど、私はその上に体育座りをして、パソコンのワードファイルを一心不乱に見つめていました。

デスノートという映画があったよね。私はまるでエルのようでした。エルと違うことが一つあって、それは私が特殊メイクをしていなかったこと。スッピンなのに、目の周りを黒くして、事務所から送られてきた曲を何度も何度もリピートしながら、チョコレートを貪りながら、ネット辞書を引きながら、私は歌詞を書いていました。働きながら、多い月には二日に一つ書いていた。どうしても書きたいアーティストの作曲の締め切りと重なることもあって、そんな時には締め切り後に寝込む覚悟でした。朝はベッドから起き上がるのではなく、まず、板張りの床に転げ落ちる。床に寝ているのが、寒くて苦痛だと感じるまで、屍のように床に落ちたままでいる。寒い冬の日には10分もすれば床の冷たさが本物の死を感じさせてくれるので、屍のまま起き上がれます。コンシーラをまぶたの下のくまに塗りこみ、カバー力の高いファンデーションを塗り出社。またパソコンの画面を見る仕事をして、目の奥はいつもガンガンと痛かった。恐ろしいので、一日に摂った糖分やカロリーは計算しないようにしていたし、夜中までアップテンポの曲を聴いた日はカフェインの効果も相まって寝付けなかった。明け方にやっと眠りが訪れ、毎朝、起きられないくらい辛かった。だけど、残念なことに、職場で倒れないくらいには生命を維持していました。倒れたらいいのにと思っていた。いっそ、意識が無くなればいいのに、と思っていた。今考えると、これ、立派な不幸の形の一つです。ぷ。

そんな私を支えていたのは、過去に読んだ言葉たちでした。10代20代と、私は、節操無く、手当たり次第、なんでも読む人でした。活字中毒だった。歌詞を書きながら、時間に追われ、溺れて藁をも掴むような状態の私を昔の言葉たちが助けに来てくれた。アドレナリンがドバドバと放出される締め切り三分前に、メロディを聴いてると、ふいに長いセンテンスが脳裏に浮かび、ぴったりとメロディに当てはまることがあった。いつか読んだあの言葉が、この言葉が、脳のどこかから引っ張り出されてきて、メロディに寄り添ってくれた。控えめに書いても、これはなかなかに面白いものです。書きあがった歌詞を見て、自分が行ったことではないような気分になるのは、悪くない。自分が不幸の坂をものすごい勢いで転がり落ちていても、どこか魅力のある作業でした。

「瀕死のリリック」

そんな風にして、綱渡りみたいに、半ばパズルを解くように歌詞を書き、マーケティングの知識を駆使して、だけど、直、限界が来ました。やはり、自分はなにも伝えるべきことを持っていないと思った。いや、伝えたいことはあったけど、伝えたいことなんてのは、死ぬまで胸に閉じ込めておくものなのだろうと考えていました。そうでしょ?だって、日本人だもの。苦しくても、苦しくても、また、どんなに優しい気持ちになっても、打ち明けたいことなんてのは胸のうちに秘めておくのが日本人です。規律とルールを守って、経済を志し、みんなと同じように暮らすのです。ずっとそんなことを続けている日本では、消費の為だけに存在するようになってしまった言葉たちが、いつも息苦しいと訴えているような気がしていました。だけど、みんな見てみぬ振りをしている。私も息苦しかったけど、自分を救い出すことより、みんなと同じことをするのが優先でした。私も見て見ぬ振りをした。第一、そんな切実な気持ちを打ち明けるような歌詞を乗せる曲は、事務所から送られてきません。思い返すと、言葉の消費に加担してこれ以上言葉を殺したくない気持ちも、私の中にある種の抵抗を生んでいて、私は余計に疲弊していたように思います。

ある日、有名な歌番組で私の書いた歌詞がテロップ入りで流れ、私はショックを受けました。この歌詞が、視聴率の高いこの番組で放送されるべきだったのか、私にはさっぱりわからなかった。短時間で効率よく、上手くできた歌詞だったと思っていたし、マーケットは明確に押さえていたし、言葉の音もセンスよくはまっていたし、自画自賛しますが、奇跡のように解けたパズルの美しさもあった。職業作家としては、上出来だと思っていました。採用され、放送されたことで、達成感だってあった。だけど、やっぱり私にはわからなかった。この歌詞が、見目麗しい女性の訓練されたパフォーマンスに乗せてたくさんの家庭に届けられた。・・・で?・・・So what?

次に私が取った行動が、また振るっている。私はショックに気が付かない振りで「嬉しかった」とブログを書き、寝てしまったのです。体を酷使してまでやるべきことだったのか、その時点でよくわからなくなっていたけど、自分の中でやっと細く繋がっていた糸が確かにぷっつりと切れてしまったけど、それにも無視を決め込んで、私は次の日も、その次の日も、走り続けるつもりだった。気が付かない振りをしたら、無視したら、自分の言葉が、前にも増して死んでいくことに薄々勘付きながら、「みんなと同じ」ように「今までと同じように」暮らすことが私をがんじがらめに縛り付けていました。