運命の人

運命の人っているのかな。

いるんだったら、運命の人に出会ったら、それがその人だとわかるものなのかな。

ぼんやりしている私は、もしかして、今までの人生で運命の人を見落としてきたのではないのかな。

もう五年だか、七年だか前にそんなことを考え、その疑問は、ずっと私の頭の片隅に居座っていました。時折……それは大体、人との関係が上手くいかないなぁとしょげている時でしたが……「運命の人」について、眠る前にググってみたりします。だけど、納得のいく記事はヒットせず、スマホの検索窓に入れるワードを思案しながら寝オチしてしまったり、哲学の「偶然」や「運命」の森に迷い込んで、出て来れなくなったりしていました。アホい。

やっぱり、もう一度結婚したいなぁ。理解しあえて、一緒に楽しく過ごす、生涯のパートナーが欲しいなぁと本気で思ったのは、二年くらい前のことだったでしょうか。それまでは、口では「パートナーがいるって豊かなこと。一人は楽しいけど、二人は豊か」とか言いながら、誰かとお付き合いすることをどこか諦めていた節がありました。というのも、私は兼業作家で、仕事から帰って、作詞、作曲の作業をし、倒れこむように眠るだけの生活に、もう二度と(私には離婚暦がある)パートナーが入り込む余地はないと思っていたからです。それが、二年前、男友達がある男性を紹介してくれて(そのご縁は成りませんでしたが)自分に少しその気が出てきたのです。

しばらくして、私は婚活サイトに登録しました。成り行きでしたが、今はそのサイトで知り合った、とても大切に想える彼がいます。そして、随分前に「運命の人」について考えていたことを先日ふと思い出しました。私は、婚活サイトでたくさんの、本当にたくさんの方のプロフィールを拝見する中で、今ではとても離れがたいと思えるまでの彼を発見した(正確には彼が私を発見してくれてメッセージを下さったのですが)。そうか!今なら「運命の人」というのがわかるんじゃないのかなぁ!!アプローチしてくださった方々と、彼とは、何が違ったのだろうか?なぜ、私には、彼だけが浮かび上がるように、光って見えたのだろうか?彼は、元々魅力的な人ではあるけど、長い時間を共有することになるであろう予感が既にあり、相性という意味でも、他の人とはなにかが決定的に違うと、あの時、私は確かに感じていたはず。それが「運命」ではないのか?その正体は一体なんであろうか???

さまざまにこねくり回していた思考だったからか、嘘みたいにすぐ回答にたどり着きました。ちょー呆気なかった。

私は、あの時、「運命の人」じゃない人に対しては(つまりほとんどの人に対しては)プロフィールなどを拝見した時点で、遅くとも、一、二通のメッセージをやり取りしている間に、無意識に「カテゴライズ」してしまっていたんじゃないのか?

(この人いい人枠)

(この人チャラい枠)

(うーん、文章のリズムが合わない枠)

(お仕事で知り合いたかった枠)

(保守で官僚的、私の仕事への理解が薄そう枠)

等々。

どうですか?みなさん、リアル社会でも、SNSでも、みなさんは、多くの人に触れ、多くの人から情報を受け取っているはずです。カテゴライズってね、その人との距離なんです。人と情報の洪水の中、なんらかの形でカテゴライズでもしなけりゃ、なかなか整理もできない。その善悪はともかくとしても、人は無意識にカテゴライズして「その対象と上手く距離をとる」。自分の脳みその中のどの辺に配置しておこうと、決める。自分の心の中のどれくらいを割こうかと考える。ワカモノが読んだら、大人の小賢しさを感じ取るかもしれないけど、人との距離が上手くはかれるってことは、生き易さでもあるのです。いろんなカテゴライズをして、タグをつけておけば、一定の距離をもって接することができて、何事もスムーズです。(この人は、こういう人だから、自分の中ではこれくらいの距離を取っておこう)(この人はこういう人だからこれくらい)それは、双方の幸せのためでもあります。

さて、ここで、彼を思い出してみます。ああ!やっぱりこの考えは大きく外していないぞ?私は彼からメッセージを頂き、彼のプロフィールを拝見したとき、彼をカテゴライズしなかったのです。彼は、カテゴリーごとのテンプレートで対応すべき対象ではない、と、私は即時に判断しました。彼との間に起こったことは、一つ一つ、その時に対応したい=コミュニケーションを取りたいと考えたのです。それはすぐ行動に現れました。私は、彼にメッセージを返信し、翌日だったかには、もう数通のラリーになりました。それまで、たくさんのメッセージを半ば事務的に処理して疲れきっていたのに、彼からのメッセージが待ち遠しくて仕方がなかった。その後はプライベートのアドレスでたくさんのメールを交わしました。カテゴライズしてないから、もっと知りたいんです。たくさん知っても、まだまだ知りたい。

さてさて、ここで、この仮説を検証するために、心的に近く感じている他の友人にも当てはめてみよう。例えば、常駐しているTwitter。やや!Twitterのお友達に関しての感覚も、これに似ています。自分の中で「○○クラスタ」とカテゴライズされていない人は大体友達。なーんだ。「運命の人」と言うのは「自分の中でカテゴライズできない、また、しない対象」なんですね。それは、どういうことだろう。「自分にとっての未知=知りたい人」と「自分と似通っているところ=安心する人」が、その人の中で、同じくらい存在しているってことなのかな?(また考える)

だから、あなたの中で、カテゴライズできない人が現れたら、タグ付けできない人が現れたなら、それはあなたにとっての「運命の人」かもしれません。まぁ、でも、こういうことは大体、後から気が付く。心配すんな。

そうそう。もう一つ、「運命」について思うことがあります。実は、彼からメッセージを貰う前日、きっと私が好きになる人はこういったサイトに登録したりしないのね、と諦めていました。沢山の方のプロフィールを拝見して、ありがたいことに沢山のメッセージも頂いたけど、もう、サイトを退会しましょう、と考えていたのです。パートナーが見つかるといいなとは思っていましたが、執着をしなくなったとき、彼が現れました。これは、映画や小説なんかでもよく使われるストーリーですが、自分の人生の中でもいくつか心当たりがあります。頑張って手放したとき、それが訪れる。これは、「運命」の特徴の一つではないでしょうか。

そして、この考察から一晩経って考えてみると、これって、情報社会での取捨選択をどう行っているかの延長にあるようで、現代的ですね。考え始めた当初、運命を考えることは偶然を考えることに似ているかもしれないと思っていたけど、哲学的考察からはちょっと離れてしまった感があります。しかし、いろんな「運命論」を読んで、だけどしっくり来なくて、今のところ、この考え方が一番しっくり来てますので、とりま、これ採用ってことで〆たい。

ちなみに、体系的に「偶然」や「運命」を考えてみたい人は、ここにヒントがあるよ。木田元氏の「偶然性と運命」を紹介した松岡正剛さんのブログです。ここでは、哲学の中で「偶然」や「運命」がどう扱われてきたのか、偉大な哲学者の思想を駆け足ですが、体系的に紐解いています。とっても面白い。

「松岡正剛 千夜千冊」

http://1000ya.isis.ne.jp/1335.html

”九鬼周造こそが偶然を思索した近代哲学最高の哲人”

とありますね。紹介の文中にもありますが、最後に私からも一冊ご紹介します。九鬼周造はこの本が面白い。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫) 

http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%84%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E4%BB%96%E4%BA%8C%E7%AF%87-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B9%9D%E9%AC%BC-%E5%91%A8%E9%80%A0-x/dp/4003314611

日本に生まれて、海外の思想や文化に触れ、また日本を考えた末にこれを書いた九鬼に、作曲家に通じる芸術性を感じたものです。

あー長かった。やれやれ。本日は、長い時間、惚気にお付き合い頂き、誠にありがとうございました。またのお越しを心よりお待ちしております。あは。

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